成田裏道歩き
門前町成田のもうひとつのまち歩き
[Narita Alley Walking]


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《山あり谷あり裏道細道コースの説明》
The ups and downs course description
歩程約2km
about 2km
walking distance
歩行時間約1時間
about 1hour
walking time
 ※ゆっくりペースで見学等を含みますが個人差がありますので時間等には余裕をお持ちください!

お墓や境内は神聖な場所です。「お参りさせていただく」という気持ちで行きましょう!

 



























JR成田駅
  不動の椎









































JR成田駅
(開運橋)
 ↓


















































権現山















































権現山










































権現山























































権現山










































新道「東洋」





















表参道横断


商工会議所駐車場
付近谷地の急坂

電車道






























電車道









































電車道












































栗山公園
D51汽車




























栗山公園
公衆トイレ過ぎ
急坂上がる









谷津之台墓





























谷津之台墓












































わらべどおり

成田幼稚園
祈りの像


















園庭外周路
細道・神社祠













階段を下り
本町通りへ

幼稚園方面へ
向かう





























小坂石材先
右側細道

電車道横断

井戸坂上がる



















































神明山通り細道














神明山
山頂あたり























電車道へ
階段下りる

成田山
総門前広場



















延命院旧跡































細道入る



















国登録文化財
大野屋旅館側面
細道















トップ










































































































































































トップ





















































































































































































































































































トップ
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JR成田駅 お不動様の分身と崇められた「不動の椎」


JR成田駅前の樹齢七百年といわれる椎の木。

その昔、駅周辺は松や杉がうっそうと茂る山林で、湯殿権現社が祀られていたことから「権現山」と
呼ばれていました。

明治30年鉄道開通により山林は姿を消し、駅前広場が造成されても、この木だけは伐採されませんでした。現在まで残されているのか確かな理由はわかりませんが、こんなエピソードが、伝えられています。

成田詣は泊まりがけの旅で、門前町の旅館は隆盛を極めていました。<正月一ヵ月の稼ぎだけで一年分の生活費が稼げたそうです。>旅館には各地から多くの仲居さんが働きに来ていましたが、故郷を離れ心もとない日々を送る彼女たちは、シイの葉を一枚懐にしのばせ心の拠りどころにしたといいます。

そしてシイの木は、参拝客や地元の人々からもお不動様の分身と崇められ「不動の椎」と呼ば
れる様になりました。

※「花崎町」の地名  明治30年ころ 開発された小公園に桜の木を植え、花咲く町から名づけ
られた。 昭和49年に桜の木を植えた人が、山崎○○氏だったことから、咲→崎に、変更された経緯があるそうです。


JR成田駅の変遷

明治5年に我が国最初の鉄道が、新橋~横浜間を開通したのを期に、それまでの籠、馬、船によ
る輸送から鉄道輸送へ目が向けられました。

明治27年錦糸町~佐倉間が開通、東京からの成田山参拝客の増加をみるにいたりました。

成田山住職や、土室出身の衆議院らが中心となり鉄道会社を設立。成田山が、町はずれの現在
地を駅の敷地に提供。参道をつくり商店を営めると考えました。

明治30年佐倉~成田間開通

京成電車の変遷

1909(明治42)年鉄道会社設立。 大正元年押上~江戸川、高砂~柴又間を開通。

 大正1512月東京・押上~成田を結ぶ成田線開通。この時、成田花咲町駅は、現在の成田駅より300m酒々井よりでした。昭和54月、現在の位置に成田駅開業。成田山新勝寺に近づくとともに、JR乗り換えに便利になりました。

開運橋の歴史



昭和10年に京成駅前右側の窪地に架けられた木製欄干の太鼓橋風の開運橋


現在の コンクリート製 開運橋



マップ権現山
P4072309.JPG

この周囲は成田山の境外地。  向かって左側は、花崎町愛宕神社、右側は、「湯殿権現社」。  

七月の祇園祭は約300年の歴史があります。当時は、湯殿権現社の祭礼で旧68日だった。江戸
時代末期に同日おこなわれていた大日如来の祭礼と一緒になりました。

現在、中日の朝に神輿と山車が権現山(JR成田駅前)に集合するのは、古い祇園の形が残さ
れているからです。

「お大師様」オダイシサマ

 成田山は、真言宗智山派 成田山のご本尊不動明王座像は弘法大師空海が刻んだものです。

 大日如来は真言宗の総本尊・・不動明王は大日如来の化身

 空海(弘法大師・お大師様)は、真言宗の開祖で、右側に奉納されたお大師様が並んでいます。

「倶利伽羅竜王」クリカラリュウオウ



 不動明王が持つ剣に、炎に包まれた龍が巻き付き、飲み込もうとしている様子を表した像。

 不動明王の知識を象徴する存在。脇侍の童子(制多多伽童子セイタカドウシ)が守護神として、王を  守っています。衿羯羅童子コンガラドウシがいないのはどうしてでしょうか?!

  備考:不動明王の脇侍(八大童子の中の二人で脇侍になることが多い)

     セイタカ童子・・活発な性格で右手に金剛棒を持っています。

      コンガラ童子・・気が優しく、従順な性格。手は合掌していることが多いです

まち歩きポイント:

 成田山新勝寺境内には、信者から奉納された「倶利伽羅竜王、セイタカ童子コンガラ童子など」があちこちに見られます。探してみましょう!

 ※総門~山門~亀池の橋を越え、正面階段の両サイド奉納碑の中に両童子がいます。

  本堂が不動明王なのでしょうか!?

「権現」の意味・・・神様が現れる山   参考:熊野権現 山王権現 清滝権現 など

仏や菩薩が衆生を救うために種々の姿をとって権(かり)に現れること。

仏が化身して日本の神として現れること。

「権現山の石仏」

        庚申コウシン様(青面金剛ショウメンコンゴウ)など石仏が祀られています。

参考: 庚申信仰:中国から伝わった道教の教えに、「人の体内には三尸サンシという三匹の虫がすみ  つき庚申の日(年6回位)にその虫が体の中から抜けだし、天の神にその人の悪行をいいつける。  天の神は罰として寿命を縮めてしまうので、庚申の夜は眠らず酒食をとりながら過ごすのが   良い」という一説がある。江戸時代には、“酒食をとりながら夜をあかす“庚申待ちとして庶民   に広まった。この功徳を願うために建てられたのが庚申塔・庚申様・青面金剛像(日月、邪鬼、   鶏、下部に三猿など刻まれているのが多い)です。

◎現在、百庚申は竜台、宝田(後・桜谷津)、西和泉の4ヶ所で確認されています

「不動明王の種字を刻んだ石碑」

 

 湯殿権現社脇の石碑 明治41年建立 中央が、「カンマン・大いなる不動明王」 の種字

 向かって右が、脇侍の童子「タラ・コンガラ童子」の種字

 向かって左が、脇侍の童子「タ・セイタカ童子」の種字

 裏面には江戸時代後期の画家 渡辺崋山の「観音大士像」が刻まれています

 参考: 種字とは、仏尊を表現するための文字(インドの文字、梵字で表現したもの

「赤坂日花惣講中の石碑」


 1858(安政5)年刊行の「成田参拝記」成田山全図に、「花畑(現在の表参道成田信用金庫あたりの場所)」が、記されています。 1819(文化2)年、江戸赤坂のお花講は、新勝寺の御本尊への献花用に花畑を奉納しました。上部に、不動明王と、二人の童子が刻まれています。

また、駅前権現山周辺は大きな木の絵が描かれ、山道だったことがわかります。南庵前には、大きな鳥居が立っています。その先右側に「花畑」の文字があります。


                 成田山全図作図



「歌舞伎役者奉納記念碑」

 1909(明治42)年の奉納記念碑(鉄道が開通して成田詣が盛んで華やかな時代)、石積みで小高くなった所には、石碑と広葉樹が大きい。基壇前や階段の石柱に、明治後半から大正、昭和に、大活躍した歌舞伎役者「片岡仁左衛門、坂東三津五郎、尾上栄三郎、守田勘弥、中村歌右衛門・・」の名前が刻まれています。いずれも、女形で有名です。 成田山の繁栄には、市川団十郎をはじめとする歌舞伎役者ぬきには語れません。また、越後屋呉服店(三越の旧名称)や、置屋、茶屋などの銘板が見られます。

参考 ・宗吾霊堂正門石柱に「中村吉右衛門」、境内には、松本幸四郎、中村勘三郎、中村勘九郎の記念樹があります。・・・歌舞伎演目「佐倉惣五郎」上演によると思われます。

参考:仲之町のうなぎで有名な「川豊」は、明治43年創業です。

成田の老舗 新道・パブスナック「東洋」



 20131月木曜21時~TBSドラマ「あぽやん」の撮影現場。成田空港・成田市役所・成田山新勝寺・
参道の店舗・市内店舗など、オール成田で撮影協力。伊藤淳史、桐谷美玲などが、空港を舞台にお客様のトラブル解決に奔走するドラマ

 昭和の雰囲気を残す外観。店内のたたずまいは55年前のオープン当時のまま、ジャズが流れています。
カクテルのレパートリーはざっと300種類。航空会社名の「バニラエア」「ANA」「JAL」「ジェットスター」など、各社のイメージカラーのカクテルがあります。

商工会議所駐車場付近谷地の急坂




電車道 「4月の頃は、桜並木が美しい!」




土木遺産の「成宗電車トンネル」





   ※ピンク色の線が、成田山門前~電車道~成田駅前付近の成宗電車が走っていた道です
    現在は道として使われていますね。(SL保存会より参照)





栗山公園の「D51蒸気機関車」





 ☆311月第4日曜日 10001500ミニSL運行 尚、都合により中止あります。

マップ谷津之台墓地


 墓地前の道路は、曲がりくねったむかし道で、花崎町の栗山公園や、東町新参道へ抜ける急坂に繋がります。 赤い頭巾や白いたすき(条帛じょうはく)をかけたお大師様やお地蔵さんが人々を見守っています。向かいにも、観世音菩薩像、水子地蔵等、たくさんの石仏が並んでいます。 服装、持ち物、手の形がいろいろで、良く見てみましょう!






毎月21日はお大師様参り・成田市内八十八か所地蔵様廻り
新勝寺近辺  地蔵様数 
 1 堂庭女坂  4+3 
 2 光明堂裏(道路に出る)
 3  田町 しらばっけ墓地 
 高校わき
 4 桜山公園 
 5 成田公民館の上 
東町・寺台・谷津之台方面   
6 成田保育園(寺台)入口 
成田保育園(寺台) 内 
 7 お仙稲荷前 
 8  飯塚ペンキ屋前・・・不明? 3
 9 谷津之台墓地  17 
幸町・郷部方面   
 10 小学校下踏切 
 11  日暮歯科医院前  3
 12  伊原家隣り
 13  薬師堂内右手 6( 19)
 14 塚之越庵(幸町墓地)   3
 15 成田山発心院隣り 
 16  出世稲荷前 9
 17   三の宮前
三の宮裏   3
 15 平山建設裏  6
囲護台方面   
 19 囲護台踏切下 
 20  あずま屋ストアーの下 1
 21 南囲護台市営住宅脇(ふじや隣り)   1 
 22  囲護台稲荷(成田国際高校脇)  1
 23  囲護台墓地  6
上町・花崎町方面   
 24 南庵墓地  10 
 25  権現山
 26  不動が丘バス停前  1
 27  ありあ橋脇  5

 毎月21日の弘法大師の縁日(月大師)に、成田山の僧侶が先達になって門前町の札所巡拝して大 師像を祀る風習が続いています。

 門前町とその周辺を「新四国成田八十八か所霊場」とするウツシ巡礼で、天保101839) 年始ま りで、門前町の七墓を巡る死者供養の性格も強いです。
 回向には、小さな木魚を持っている人は打ち鳴らします。

 午前930に新勝寺の大師堂前集合・巡拝し、結願ケチガンは光明堂裏手の奥之院脇で大師像を拝んで修了します。

 身内で亡くなった方がいる場合は、死後49日以内は死者の魂は屋根や棟にいるので往生を願って 一緒にお参りして108ヶ所の仏像に戒名用紙を貼り付けて供養する習慣もあります。

 大師にあの世に連れていってもらう、地蔵に死出の道を案内してもらうといいます。

 巡拝は「成田市内八十八か所地蔵様廻り」ともいい、弘法大師も地蔵も、観音の信仰も重なってい て、全て民間の身近な救いのホトケでした。

マップ④成田幼稚園「祈りの像」



 成田幼稚園は、1905(明治43)年、成田山住職石川照勤上人によって開園。創立100年以上になり、 千葉県下の私立幼稚園でもっとも古い。

 愛らしい祈りの像を見たら右に曲がり、新参道、成田山自動車祈祷所の眺めを高台から見てみましょう。 そのまま、園庭外周の細道を進み、階段を下り、鳥居をくぐると本町通り坂下に抜けます。

 右側の角地は、旧成田町役場のあった場所です。[1954(昭和29)年331日成田市の誕生。
 昭和3310月新庁舎完成まで使われていました。]

 ※園庭や周辺は、大きな広葉樹林や桜が多数あり、清々しい高台です。

 ※園庭に、 「箒を持っている姿の小僧」の像 があります。 探してみましょう!

本町通りは、明治大正時代は成田町の官庁街





成田町役場、郵便局、佐倉裁判所成田出張所、税務署などがあった。 古い日本家屋が多く、趣のある通りです


本町 井戸坂
         
                井戸坂の登り口 (電車道~井戸坂~神明山通りへ)
 



一部レンガ積みになっています。 チンチン電車のトンネルと同じ頃のものなのか?!



   江戸末期1858(安政5)年刊行成田山参拝記・成田山全図」に、「神明社 神明ミタラシ小井戸」
  と記載されたむかし道です。ここから、毎日、お寺へお水が運ばれましたが今はありません

神明山通りの細道



      神明山頂上付近からの眺め・・・光輪閣・本堂・総門・総門前広場が見えます!

   成田山は縁起によると、940年市内公津が原(不動塚成田市並木)で開山されました。
   その後、なごみの米屋裏の「御遷座之旧跡」に移されました。
   それから、この神明山に移され本堂が建立されました。 

   そして、この場所が狭かったので、室町時代後期1566年、寺台城主甲斐守三吉によって、
   現在の場所に本堂が移されました。

  神明山通りは、昔から、電車道から、表参道や成田幼稚園方面にぬけるのに便利な抜け道となっています。


コラム:寺台城主甲斐守三吉 とは!?

成田市寺台のJA成田駐車場脇の丘が、寺台城跡です。 三吉には逸話が多い。

◆その1 「成田山の朱塗りの仁王」

P4012107.JPG

           









三吉が成田山参詣して、仁王尊が白木のままであったため、「朱服をたてまらん。願わくは我に人に負けないほどの力を授けたまえ」と願いをかけた。
その帰り道に、大男と組み合になり、勝った。約束通り、朱塗りとし、水田を奉納した。


◆その2 「せいたか童子のおすくい」 
     大本山成田山新勝寺発行「お不動様の成田山」・・・このページ下部「資料編」参照

延命院旧跡と七代目市川団十郎


   三升の紋を配した「延命院旧跡」と刻んだ石柱があり、延命院と呼ばれた寺院の跡地です。
                               ・・現存の建物は違う

 この場所に、七代目の市川団十郎が住んでいたことがあり、1842(天保13)年奢侈しゃし禁令 
 にふれ、江戸追放となり、移り住みました。庭を飾り、土蔵内部に金伯施し、舞台道具も本物を使っ たり、成田山に石灯籠を奉納したことなどが理由となりました。句会をしたり、村の子供に芝居を
 教えたり、千葉、芝山の名所旧跡を見物しています。

 初代市川団十郎と成田山

 成田市幡谷の出身、幡谷の薬師堂前の墓地に墓がある。 初舞台14才。16601704(元禄17

 成田山不動明王に子授け祈願、1688(元禄元)年、「成田山・不動の申し子」と言われる九蔵 
 (後の二代目16881758)誕生。 
 成田山不動明王を演じ、親子に「成田屋」の声が欠け始められた。

 元禄16年成田山出開帳の折りに、初代は九蔵と共に、大鏡一面(大塔にて展示)、大提灯2張奉納。

 参考:高麗屋こと松本幸四郎も、初代は、香取市小見川の出身。墓が、小見川の善光寺にある。


七代目団十郎

 成田山を篤く信仰。舞台でも「成田山不動明王」の上演をたびたび行いました。

 18191826年の二回、一流役者を連れて、成田村で奉納芝居を2回行っています。

 三升の額堂(1821年建立・焼失)・能面「不動」・三組大益・裃かみしも姿の等身大七代目団十郎石  像(現在の額堂に設置)は、七代目団十郎が奉納しました。

国指定登録文化財になっている「大野屋旅館」




           延命院旧跡先の細道を入ると大野屋の側面が望める

  この道をさらに進むと出世稲荷への抜け道になる・・・現在閉鎖中が残念である

 ○ 大野屋旅館・・1935(昭和10)年建立

   江戸末期、釈迦堂の五百羅漢を彫刻した良山は、大野屋旅館に泊まって彫刻に没頭した。十年   の歳月をかけ完成させる。

 ○ 創業江戸中期。江戸時代末期から昭和初期の建物は、房総のむら「総屋」に再現している。

 ○ 木造4階建て(望楼付き) 3階114畳大広間には能舞台あり。

 ○ 今は、お食事処、漬物屋を営んでいる。


資料編↓


         成宗電車の歴史  広報なりたより










「D51のパンフレット」 成田SL保存会











◆ 「せいたか童子のおすくい」 
     大本山成田山新勝寺発行「お不動様の成田山」参照



 トピックス:8代目市川団十郎と成田山
8代目1854(嘉永7)年30才没 子供がなかったので弟が9代目襲名 (7代目(父)185968才没)

P4301906.JPG




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